十一月十六日月曜日
いつものように朝は始まり三日ほど前に送ったりんごが
父のところにももう届いているはずで
そろそろ電話がくるかなあと思っていた。
午前十時半頃に
福島の兄からの電話がなった。
声は義姉からで、緊迫した声で父の死が告げられた。
十三年前に母をがんで亡くしてからずっと一人暮らしをしていた父は
亡くなるその日まで
車で買い物に出かけ
ワンカップとかみかんとかお寿司とかを買い
いつものように
少しのお酒をたしなみお寿司の上のマグロだけをつまみにし
大根の味噌汁も作っていただいて
いつものように居間の電気を消して床に入り眠りについた。
そしてそのまま次の朝に目を覚ますことはなかった。
新聞がたまっているようでと新聞配達の方から隣の本家に
連絡がいき、本家から兄のところに連絡がいき
かけつけた兄たちによって亡くなっている父は発見された。
買い物したレシートが十二日のもので
十三日からの新聞がたまっていたので十二日の夜半になくなったのでは
ないかということになった。
三、四日分の着替えとそして喪服も持って
電話が来て一時間後に電車に乗り、新幹線で福島に向かった。
福島の実家には東京の弟が先についていて
ぼんやり縁側に座って父の庭を眺めていた。
家に入ると父がいつも座っていた場所の座布団は
さっきまでそこに座っていたように丸いくぼみがあって
いろんな暮らしの備品がテーブルの上に乱雑においてあった。。
一応検死のために父はそこにはいなくて
父の寝室は窓が開け放たれてハエが二、三匹飛んでいた。
「随分ハエも減ったんだよ」と弟の声がして
一緒にベッドの周りの乾いたみかんの皮とをかをみて
「みかんも食べたんだね」とか
亡くなるその日までの父のことをあれこれ話した。
父は警察の検死を受けてから棺に入れられて
斎場のほうに移動するとのことで
もうそろそろ着いているころだからと、
迎えにきた兄の車で安置所に向かった。
葬儀の日程は順調に決まって家族葬で見送ることにはしたけれど
何せ親戚知人あまたいる地元であるだけに
九十一歳と現役を引退して随分経っているはいたのだけれど
父の死を悲しんでくださって多くの方が弔問にいらして下さった。
亡くなるその日まで車を運転して買い物をし
身の回りのことはすべて自分でこなした。
新聞を二社とって毎朝時間をかけて目を通していた。
庭もきちんとして
父の生活するスペースは父らしい工夫した様々な備品であふれていた。
かたくなに一人暮らしを貫いてはいたけれど
この頃は車の運転をはじめいろいろと心配なこともあって
いつまで父の望むきままな一人暮らしができるかなあ、
もしできなくなって施設のお世話になったりすることを
いずれはしかたがないと話もしていた。
いろいろなことが
「ああ今だったのかなあ」と突然父は人生に終止符を打ったと思えるほど
寝ている間に父の心臓は動くのをやめたみたいだった。
まだまだ元気でいると思っていたが
不整脈はあったんだよなあ、と思った。
弟は「たぶんお父ちゃんは自分が死んだことに気が付いてないと思うよ」
なんて言った。
突然この世からいなくなってしまった父の死の実感が
なんだかわかない。
でも
本当に父らしく生き抜いた。
亡くなってからのほうが
父と語るものなのだなあ。
九十一歳の父は七十六歳の母と再会して
「おまえ若いなあ」と言ってるだろうか。